チャンネル遂夜

右左に囚われず私が政治、社会に対し思い、考えた事を発信していきます。Twitterもやってます。@kurasikituiya

議論する自由

 本日は少し哲学的な話をしたいと思う。ある本を読み、思った事だ。


 あるテレビ番組で一流の文化人に若者が質問をするというコーナーがあったらしい。

 そこで若者がかの有名な大江健三郎氏に「何故人を殺してはいけないんですか?」と質問をした。

 すると大江氏は「その質問自体が道徳に反する」として問いに対し取り合わなかった。


 大江氏は一流の言論人、文化人であり、対して若者は無名の一般人であるが、私と筆者はこの若者に大江氏よりも優れている面を垣間見た。

 それは真理に対する誠実さである。

 確かに大江氏の方が道徳的に正しく誠実かも知れない。

 しかし、若者は何故それをしてはいけないのかという事を真剣に議論しようとしたという点では真理に対し、誠実であり、その点で大江氏よりも優れているのだ。


 世の中にはこの様な場面は無いか?

 「本当はこう思うが、これを言うと道徳的に非難を受けるから辞めておこう。」

 例えば、国防、ジェンダー、容姿格差、男女の役割、歴史問題、障害者福祉等言葉に出して議論しにくい問題がこれに当たるだろう。


 私は議論をする事自体を否定するのはそれこそファシズムと変わらないではないかと思う。民主主義の国は不寛容に不寛容でなくてはならないが、それは実際に行うという犯罪行為に対してである。議論の段階では何を良しとするのか良くないとするのかという話し合いがなされても良いはずだ。

 何事もレッテル貼りをする前にしっかりと議論をし、様々な立場の人間、言論から関係者間の利益調整、もしくは法律を決めていく。

 これが民主主義ではないのか?議論をレッテル貼りで潰す事があってはならない。